なんて美しい草原なんだ。この草原の美しさを正確に伝えるための言葉を、僕は知らない。旅は僕にたくさんの感情を与えてくれる。でも僕の中に生まれた色彩豊かな感情たちは、誰に届くわけでもなく僕一人の中で完結する。それはとても儚いけれど、しかしとても尊いもののような気がする。 僕はこの気持ちを大切にしたい。心の輝きがきっといつか、僕を途方もない孤独から救ってくれるように思えるから。
シリーズ:孤独な旅人の呟き
アキーク砂漠を西に抜けると、美しい緑の高原が唐突に現れる。緑が多いということは、水の魔力を豊富に蓄えているということ。砂漠は年中乾燥しているというのに、なんとも不思議なことだ。まるで水の魔力が抜けることのできない結界が、砂漠と高原の間に張られているようだ。 私はこの結界の正体が、「地面」にあるのではないかと思っている。砂漠は赤い砂でできているが、高原は黒い土でできているのだ。地面と天候、そして植物との関係。しばらくはここで観測を続けることにしよう。
シリーズ:気候学者の推察
この高原に生える草花は、成長がとても早い。年に数回訪れて馬や羊たちに思う存分食べさせても、いつも元どおりの美しい景色が広がっているのだ。 ずっとこの場所で放牧していても平気ではないのかと息子が聞いてきたので、それだけは絶対にしてはいけないと教えた。私たち遊牧民は自然によって生かされている。その感謝の念を忘れた遊牧民によっていとも簡単に自然は壊され、そしてそれは、自らの首を絞めることに繋がるのだから。
シリーズ:遊牧民の日記
森の中を歩くのがこれほど大変だなんて、想像もしてなかった。太陽も月も隠れちゃうと薄暗くて方角もわからないし、どれだけ歩いたのかもわからないから終わりが見えないんだ。もしかしたらこの森に終わりなんてなくて、僕は一生歩き続けないといけないのかもしれない。 でも、わかったこともある。この森の魔物は僕たち人間を恐れている。だから、堂々と歌を歌いながら歩いた方がいいんだ。みんな最初は恥ずかしがってたけど、今ではまるで合唱団みたいだ。さて、明日は何を歌おうかな。
シリーズ:新米冒険者の気づき
探検の途中で皆がボロボロになり、それまでに得たものをすべて失くしてしまうことがあるだろう。そんなときは、「初めから無理をしない」という選択肢があることを思い出そう。 全滅してしまう前に帰って来れば、多くを得ることはできないが、少ない報酬を確実に得ることができる。焦らず一歩ずつ前に進んでいけば、大きな山の頂きにだっていつかはたどり着けるはずだ。
シリーズ:探検のススメ
人の手が及ばない原生林。何千年も前から続く森だというけど、そもそも森って、始まったり終わったりするものなのかしら? きっと世界が生まれたときにこの森も生まれ、この森に棲む魔物も一緒に生まれたんだわ。とても神秘的ね。 世界が始まったその日から命を繋ぎ続けてきた、太古の魔物を一度見てみたいわ。森の王者、世界を統べる暴君の姿をね。
シリーズ:魔物生態研究報告書
近頃、波が騒がしいんだ。何か良くねえことが起こるんじゃねえかって、そんな気がするぜ。何処かの誰かが、悲しみに溺れちまうような、悪ぃ予感がするんだ。 俺にゃ関係ねえことかも知れねえ。だが、同じ太陽の下で働いてる仲間なんだ。そいつの幸せを願ってやることくれえは、したっていいだろうさ。
この先は魔法都市なんて呼ばれちゃあいるが、魔法にとんと疎い俺には関係ねえことだ。だが、それでいいんだよ。人には得意不得意ってもんがある。どんな偉大な魔法使い様だって舟に乗る。舟は船頭がいなきゃ動かねえ。俺のできることなんかたかが知れてるが、それでも俺のできることをして生きていく。 つまり、世の中っていうのは、そうやって上手いことできてんだ。
風が吹く日にゃ、波がたち、鳥が騒ぎゃ、魚が跳ねる。俺たちゃ名無しの、道しるべ。 世知辛ぇなら、舟に乗り、愚痴を垂らして、捨てちゃいな。 雨も曇りも、気にしちゃ終ぇよ。よろずが川に、飲み込まれ、染められちまぇば、群青色。 ゆらりゆらりと、揺れながら、夜明けを待つのも、悪かねぇ。
希望の賢者ゼインの名において、その方を運河の船頭として認める。大きな川にたゆたう小舟であれど、舟は人々の足となり、道となる。これからも精進せよ。
乗せてくれる船頭を選ぶときには、そいつの顔をしっかりと見るんだよ。目がギラついていたり、笑顔が大袈裟だったり、やたらと良いものを身につけていたりしたら、ぼったくられる可能性があるから注意しな。 人の心は、必ず顔のどこかに表れるんだ。商人たるもの、その見極めができなきゃ生きていけないよ。わかったね?
シリーズ:見習い交易商人のメモ
魔法都市ゼインには、森の奥に潜むトカゲのような魔物の心臓と、一年のうち最も寒い晩にしか咲かない花の蜜と、塩水に7日間浸したプラムを鍋に入れて、丸1日かけて煮詰めたソースがあるそうよ! なんでも体の中の悪い魔力を全部外に出してくれる効果があるらしいけど、上級魔導師にしかうまくつくれない幻のソースだっていうじゃない! あなたには無理かもしれないからなんとかしてそれを手に入れて、早く持って帰って来なさい!
シリーズ:グルメな命令書
最近、司教様と大司教様が二人でお話しされているのをよく見かける。司教様はその位階を授けられたばかりだというのに、もう大司教様と密接な繋がりを持っていらっしゃる。 司教様は確かに素晴らしい魔力と精神をお持ちだが、以前はどこで教えを広めてこられたのか、誰も知らないらしい。謎多き方ではあるが、私は司教様の底知れぬ魅力に強く惹かれている。私も司教様のように、深みのある聖職者となり、より多くの人々を救済したいものだ。
魔導師の聖地って呼ばれてるから来てみたけど、なんていうかすごすぎ。みんな強い魔力をプンプン放ってるし、もう町全体が一つの魔力の塊って感じね。高品質な杖も買えちゃったし、珍しい薬草とか魔法具とかはいっぱいありすぎて困っちゃうくらいね。 ここにしばらくいるだけで、きっともっといろんなことを学べるはずだわ。あれ、私ってこんなに真面目だったっけ?
シリーズ:素人魔法使いの呟き
大きな赤い体のドラゴニュートの男と、銀色の髪のエルフの少女の二人組には注意すべし。貸家破損被害が多数発生中。 なお、組合は修繕費用の肩代わり等は一切行いません。
ただ今、特別セール中! 持っているだけで魔力が30倍になる秘密の壺! 飲むだけであら不思議! どんな方でもモテモテになっちゃう魔法の水! え、なんでこんなところに大金が落ちてるの!? お金と幸運がどんどん舞い込んでくる最高級魔法財布! 超大賢者も納得の効果証明書つき!! さあ、どれも今なら半額だよ!!
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深い森の広場には、白銀の一本角を伸ばした美しい幻獣が棲んでいる。白馬のような姿だが、きらめくほどに艶やかな毛としなやかな筋肉が、ただの獣とは圧倒的に異なる高い品格を感じさせる。 その幻獣はあらゆることに興味があり、同時にあらゆることに興味がない。気まぐれに人間の前に姿を現し、難病に苦しむ子供を治したり、死にゆく老人の最期をただ見届けたり、戦争を仕掛けようとする独裁者に何かを問いかけたりと、その行動には一貫性が見られないのである。 しかし、一角獣には一角獣の誇りと矜持があるはずだ。あらゆる邪悪を払い、ときに生と死を司るとされるその幻獣は、いったい何を想いながら時を過ごしているのだろうか。
シリーズ:幻獣事典
幼い少女が顔をくしゃくしゃにして大声で泣きながら、鬱蒼とした森の中を歩き回っていた。「何をしているんだい?」と見かねた一角獣が少女に声をかけた。白馬のようなその一角獣は、この森に棲む幻の獣だった。 少女は鼻をすすり、涙をぬぐいながら答えた。「ママが死んじゃったの……。それで、だれかが、ユニコーンっていう動物ならママを元に戻せるかもって言ってたの……。だから……」と。一角獣は静かに答えた。「死は、巻き戻せないんだ。君は、死が悲しいかい?」と。少女はその問いかけに、より大きな声で泣くだけだった。 「死と再生は隣り合わせなんだ。死があるからこそ豊かな生がある。君の悲しみは、きっと未来の強さになる。だから今は思いっきり泣くといいよ」。そう言って一角獣は少女に身体を寄せ、草の上に座り込んだ。少女は一角獣を抱きながら一晩中泣き続け、そしていつしか安らかな眠りについた。 朝日が昇る頃、家の前の草むらで目を覚ました少女は、その心に残る大きな悲しみと、手のひらに残るわずかな温もりを確かに感じていた。
シリーズ:吟遊詩人の詩
俺ぁ、この目で見たのさ。長いツノを持つ白い獣をな。いつか狩ってやろうと思って、毎日毎日探しに行ったのさ。でも、姿を見せたのは最初の一度っきり。全然姿を見せやしねえ。そのうちに白い獣を見たっつう奴らが現れるじゃねえか。そのとき、俺は直感したね。わざと俺以外の奴に姿を見せてやがるって。俺をおちょくるためにな。 だから、森を焼いてやろうと思ったのさ。それで火を持ち込んで適当な木を燃やそうと思ったが、なぜか火がつかねえんだ。おかしいなと思ったときには、俺の服が燃え始めていたんだ。なんとか火は消せたが、おかげでボロボロの素っ裸同然の姿になっちまった。クソみてえに悔しいが、あいつを狙うのはもうやめだ。分が悪すぎるぜ。
黙示録教団には裏参道があるが、そちらを通って来る人は滅多にいない。険しい山道が続いており、魔物も多く棲んでいるからだ。今日司教様が裏参道へと向かって行ったので隠れてついて行ってみると、怪しげな魔導師たちに何か命令を下しているのが見えた。魔導師たちはただ頷き、どこかへと行ってしまった。 ……あれは、何だったのだろうか。魔導師は明らかに教徒ではなかった。司教様は、何か隠していらっしゃるのではないだろうか。
心沸き立つ裏道には四つの条件がある。 一つ目は、表の道に比べて圧倒的に人通りが少ないこと。合格。二つ目は、表の道が有名であるにもかかわらず、裏道の存在が全く知られていないこと。微妙だがぎりぎり合格。三つ目は、道が険しかったり細かったりうねっていたりして先が見えないこと。合格。四つ目は、道の果てに突如現れる建物や場所が、素晴らしいこと。建物自体は素晴らしいが教団は怪しいので不合格。 ちょっと惜しいもののワクワクする見事な裏道だ。
シリーズ:裏道マニアの徒然草
この先、落石注意。魔物注意。クマ注意。毒ヘビ注意。
――傭兵ダムレイ。 もし裏門から冒険者がやって来たら、追い払いなさい。殺しても構いません。もし来なかった場合でも報酬は言い値で払いましょう。以上。 黙示録教団司教、トウホ。
シリーズ:傭兵の契約書
香辛料の町でよくわからない冒険者たちに負けてから、俺は西へ西へと流れてきた。しかしなぜか、俺を雇った暴漢たちのうち何人かがついてきている。しかも、俺のことを兄貴と呼んでくるのだ。 俺は……誰かに慕われるような人間じゃない。無視しているが一向に離れる気配はなく、そのまま怪しげな教団の仕事を受けることになった。これでまとまった金が手に入る。……皆を、今度こそ救うことができるのだ。
シリーズ:とある傭兵の独白
近頃、裏門にガラの悪い傭兵たちがたむろしている。噂によると、どうやら司教様が雇ったらしい。大司教様もそのことについて何もおっしゃらないので、おそらく容認されているのだろう。しかし、私たち助祭だけでなく、司祭様方もその経緯をご存じではないようだ。教徒たちの中に表立って何かを言う者はいないが、皆が不信感を募らせているのがよくわかる。 ……本当に司教様は、何を考えていらっしゃるのだろうか。私は、このまま黙っていて本当に良いのだろうか。
黙示録はかく語りき。 世界の終わりは程近い。人の穢れと人の罪が呼ぶ大いなる厄災によって、世界は混沌の渦に飲まれるだろう。そのとき、人の魂は秤にかけられる。限りなき死を得るか、限りなき生を得るか、魂の清らかさがその行先を決めるだろう。 人よ、穢れを知り穢れを落としなさい。人よ、罪を知り罪を赦しなさい。一つでも多くの魂に救いをもたらさんがために。
不老不死を求める同志よ。我は古今東西のあらゆる書物を読み漁り、死を免れる方法を探してきた。各地に数多の伝説があり、それらを一つ一つ試していったが、いずれもただの迷信、根拠なき妄想であった。 しかし、たった一つだけ、我が試すことの叶わなかった方法がある。それを行えば永遠の命を手にすることができるだろうと我は確信している。しかし、我にはもう時間がない。我は残りの命を懸けて、この本にすべての知識を書き記すことにしよう。同志よ。どうか我の代わりに永遠の命を手にしてくれたまえ。 ――薬師 トキジク
何か大事な儀式があるからと、大聖堂やその周辺から人払いをするように言われた。大司教様と司教様だけで儀式を行うようで、これは極めて異例のことだ。いったい何が行われるのだろう……。なぜ、私たちには何も伝えられないのだろうか。階位は違えど同じ教徒であるはずなのに。 よし、司教様に直接聞いてみよう。人払いでもう誰もいないかもしれないが、大事な忘れ物をして戻ってきたとでも言えばそこまで怒られないはずだ。大丈夫、演技力には自信がある。さりげなく、さりげなくだ。
完璧なステンドグラスってのは、それがガラスだってことを感じさせねえんだ。まるで本当に神がそこにおわすように感じさせねえといけねえ。だから俺はステンドグラスを作ってるとき、「ガラスを作ってる」って思ってねえのさ。実際に「神を作ってる」って気分でやってんだよ。そうすりゃ良いもんができんのさ。わかったか?
ああ、老いを感じる。私はこのまま干からびて、もうすぐ死んでしまう。私がこれまで築き上げてきたすべてのものが無に帰すのだ。なぜ、人には死があるのか。私はその答えにたどり着くことができなかった。ああ、老いたくない。ああ、死にたくない。 ……神よ。なぜこのような無意味な世界を創られたのか。人は短すぎる命の中で、いったい何を成せるというのか……。
闇雲に攻撃するだけでは、立ちはだかる敵に勝てないこともあるだろう。そんなときは、「状態異常」を試してみることだ。とくに毒、睡眠、混乱の三つは使いやすい。あれほど強大だった敵が、わずかな毒に苦しみ動けなくなる様子は、君の価値観、いや戦闘観と言った方がいいかな。それを大きく揺るがすはずだ。 ……嗜虐的だって? そうかもしれないな。しかし、偉大なる探検家を目指す者なんて、誰しもが嗜虐的で被虐的なのだと私は思うのだ。
シリーズ:探検のススメ
物は試しと思って来てみたけど、本当に地下水路があるなんて思ってなかったわ。古代人が作り、長い間使われていなかったのなら、独自の生態系が築かれているはずよね。一体どんな恐ろしい姿の魔物が出てくるのかしら……楽しみで仕方がないわ! ……あれ? 今、何か鳴き声がしなかったかしら。小さく……ゲコ、ゲコって……。
シリーズ:魔物生態研究報告書
歯車の遺跡の調査に向かっていた私は、偶然にも、おそらく人工的と思われる横穴を山間部で発見した。 穴が崩れないようにその壁と天井を囲う石はひび割れて崩れているところも多く、作られてから長い年月が経過していることがわかった。穴の地面には太い溝が掘られた石が敷き詰められていて、おそらくこの穴が水路として使われていたことを物語っていた。山の水を麓まで届けるための水路だろうか。しかし、この地域は近くに川もあり、わざわざ山間に水路を作らずとも事足りるはずだ。いったい何のために? 水路にはところどころ古代文字が書かれている。はるか昔に戦争によって滅びたという古代人の技術力に私は畏怖すると同時に、彼らの行動の不可解さに薄気味悪いものを感じたのである。
シリーズ:考古学者の知見
魔法都市ゼインの名門アカデミーでは、子供たちに野菜の栽培をさせているそうよ! なんでもその年の卒業生が野菜の種に魔法をかけて、より美味しくなるように改良する習わしがあるらしいのよ! 200年くらいかけて改良されてきた野菜よ! それをゴロゴロ入れて作るアカデミー特製のホワイトシチューが絶品だっていうけど、当たり前じゃない! なんとかして譲ってもらいなさい! ダメそうならアカデミーに志願しなさい! 仕方がないから、あなたが卒業するまで待ってもいいわ!
シリーズ:グルメな命令書
……私、見ちゃった。魔法アカデミーの名門があるって聞いたからちょっと覗いてみたら、ほんとにちっちゃな子供たちが私も使えないようなすごい魔法をポンポン放って、訓練してたの……。なんか私、あまりのショックでしばらく放心状態だったみたい。もっと頑張らなきゃって熱い気持ちと、もう絶対に勝てないっていう敗北感が心の中でケンカしちゃって、もうどうしたらいいかわからないわ。 ……とりあえずお風呂に入ってすっきりしようかな。あーあ、私も誰かすごい魔導師に魔法をちゃんと教えてもらいたいな。
シリーズ:素人魔法使いの呟き
校長先生はとっても優しい。魔力もすごく強くて、憧れちゃってる。俺もいつか校長先生を超える魔導師になって、アカデミーの校長先生になりたいなあ。そうしたら、校長先生は副校長先生に降格になっちゃうのかな? ふふふ、校長先生に恨まれちゃったりして。でも、実力主義なら仕方ないよね。
僕は、お父さんのような偉大な魔導師になりたい。僕のお父さんは、海の向こうにある港町で王宮魔導師をしてる。王宮魔導師は、町のみんなの悩みを聞いて、どんな風な町にすればいいかを考える仕事なんだ。魔法を使って道を敷いたり、魔法を使ってトンネルを掘ったり、魔法を使って大きな建物を建てたりするんだって。 え、魔法は必要ないって? わかってないなあ。魔法を使うからカッコいいんじゃん。
アカデミーの授業は楽しいし、みんなも優しくて大好きだけど、このままでいいのかわかんない。私は、どんな魔導師になりたいかうまくイメージできないの。みんなにはいろんな夢があるみたいだけど、私にはない。 でも、正直そんなに不安は感じてないの。だって今が楽しければ、それでいいでしょ? それに、楽しい今がずっと続けば、その先も楽しいはずだもん。
私の国はずっと戦争してるの。女の子の私は剣を握っても強くなれないからって言われて、このアカデミーに無理やり連れてこられた。卒業したら国に帰って、戦争を指揮しないといけないの。私、ここで学んだ魔法を使って人を傷つけるなんて、絶対イヤ。魔法は人を助けるために使うんだって教えられたもの。 どうしたら、戦争を止めることができるんだろう……。こんなことになるなら、魔法の才能なんてなければ良かったのに……。
ゼイン魔法アカデミーは子供たちに魔法を教える場所ですが、それ以上に、正しい心を学んでもらうための場所なのです。私は、偉大な魔導師とは強力な魔法が使える者のことではないと、彼らにいつも言っています。私の言葉が彼らの心にどれほど届いているのかはわかりません。 願わくば、たくさんのことに悩みながらも常に希望を持ち続けて欲しいのです。自分が何者になるべきか、なりたいのかを、常に考えて欲しいと思っているのです。
今から200年近くが経った頃、冒険者たちがこのアカデミーに迷い込んでくるだろう。彼らは、言葉を話す不思議な本を持っている。その者たちを丁重に迎え、そして助けるのだ。この予言が当たる確率は限りなく低いが、あるいは必ず当たるとも言えるだろう。彼らを助けることが、きっと世界を救うことに繋がるはずだ。 絶対にこの予言を風化させてはならない。必ず200年先まで伝え抜くことが、このアカデミーの使命だ。
歯車の遺跡の中には誰も入れたことがないという。なぜなら入口が見当たらないからだ。考えられる可能性は二つ。入口がそもそも存在しないか、何らかの方法によって入口が現れるかだ。 しかし、監獄にさえ扉があるというのに、入口のない建物に何の意味があるのだろうか? それではただの石の塊だ。するとやはり入口が隠されていると考えるのが妥当だろう。壁の歯車に書かれた古代文字を完全に解読することができれば、何かがわかるかもしれない。しかし、古代文字の解読はまだ誰もできていない。ううむ。これは、八方塞がりかもしれない。
シリーズ:考古学者の知見
壁は、人と人とを遮るもの。壁は、国と国とを隔てるもの。壁は、嘘と真実とを分かつもの。 壁に隠された向こう側の景色を、人はいつしか忘れてしまうだろう。
天から人を眺むるは、神であるか悪魔であるか。人知を超えし存在から身を隠すため、人は住処に蓋をした。 しかし、罪が消えることはない。心には、後ろめたさが残るだろう。
権力者は、台に乗る。優れた戦果を残した者は、台に乗る。美貌をひけらかす者は、台に乗る。 台の高さが人の優劣を示すなら、今にも処刑されそうな者も、きっと優れているのだろう。
歯車が回れば、天地が回る。歯車が止まれば、時が止まる。 どれほど灯りが乏しくとも、歯車を回すことを止めてはならない。死と再生を幾度となく繰り返しながら、人は巡り巡るのだ。
人は木の棒を持ち、石のナイフを持ち、骨の弓矢を持ち、銅の棍棒を持ち、鉄の剣を持ち、鉛の銃を持ち、合金の大砲を持ち、そして恐るべき兵器を手にした。 かつては諍い程度だった人同士の争いも、凄惨たる殺し合いとなり、そして行き過ぎた力によって、それはまるで喉元に突きつけたナイフを動かした瞬間にお互いが破滅するような、究極の膠着状態となった。
しかし、あらゆるものに始まりがあるように、あらゆるものには終わりがある。膠着状態を保ち続けるためには、腕の力はあまりにも疲弊し、足腰はもう崩れる限界のところにまで来ていた。 そして、終わりは唐突に訪れた。永遠に同じ姿勢を保ち続けなければ生き残ることのできない状況に耐えかねて、人々を留まらせるための我慢の杭がついに瓦解してしまったのだ。
まるで零れ落ちた水を拾うことができないように、一度崩れてしまった均衡を誰も取り戻すことはできなかった。死の暴流が、人々を流し尽くしたのだ。 そして、すべてが泥水に埋もれ、そこから小さな若芽が生えてきた。死を免れたわずかな人々は、大きな罪の重みをその背に感じながら、それでも再び、木の棒を拾い上げた。
すべての人に等しく罪がある、と誰かが言う。 しかし、罪の重さは人によって違うはずだ、と誰かが答える。 罪を軽くするにはどうしたらいいのか、と誰かが聞く。 善い行いをして贖罪するしかない、と誰かが言う。 そこまでして罪を軽くすることに何の意味があるのか、と誰かが呟く。 しかし、その疑問には誰しもが口籠もる。 それこそが人間の愚。 人間の本当の罪とは、罪を理解できないことそのものなのだ。
人が強大な力を手にしたとき、人が滅びるだけならまだマシだ。もしかすると、この星すらも破壊してしまうかもしれない。ならば、人が大きすぎる力を行使する前に、邪悪な力のすべてを洗い流してしまう手段が必要だ。そう、すべてを飲み込む「大洪水」によって。 言わずともこれは禁忌の魔法だが、私は躊躇わない。すべてが無に返っても、また最初からやり直せばいい。そしてうまくいくまで試行を重ねるのだ。私は、人の本当の"力"を、信じている。それは誰かを殺すための力ではない。誰かを幸せにするための"力"のことだ。
未来が辿る道はたった一つだけだ。ならば、初めから未来は決まっていると言ってもいいだろう。とすると、「可能性」とは何だろうか。現在から見た未来のありうる姿、つまり可能性とは、ただの幻想にすぎないのかもしれない。 人は可能性を信じて、希望を抱く生き物だ。夢を見て、その夢を糧に新たな夢を見る。無から無を生み出し続けるこの奇妙な生き物のことを、哀れだと思うか幸福だと思うかは、あなたに任せよう。
私たちの旅は、これ以上ないほどに楽しいものだった。雪山に登り、大海を渡り、砂漠に迷い、洞窟に潜り、未知の遺跡を探索し、虹の橋を渡る。多様な景色を眺め、たくさんの人と出会い、世界の大きさを肌で感じた。 永遠の苦しみの中で私の心の支えとなるのは、まるで宝石箱のようにきらめく、あの旅の思い出たちなのだ。
旅は楽しかったが、もちろん楽しいことだけではなかった。辛い別れもあり、悲しい出来事や、自分の無力さに打ちひしがれることだって一度や二度ではなかった。しかしそれらの思い出も全部、私の大切な宝物だ。 旅は私に、世界を教えてくれた。旅は私に、人生を教えてくれた。そして、旅は私に、希望を教えてくれたのだ。
あのときの私たちの選択が、本当に正しかったのか、今でもわからない。私にたくさんの宝物をくれたこの世界を大洪水から救おうと、とにかく必死だった。世界を永遠の檻に閉じ込めたことで、きっと不幸になってしまった人もたくさんいるだろう。私たちの罪の重さは、例えようのないほどに大きいのだ。 だから、君たちにすべてを託したい。私たちの罪を赦し、世界を救ってほしい。それが、旅の果てに永遠の苦しみに落ちてしまった私の願いだ。
君はいつも明るくて、本当に眩しかった。でも、君は人の痛みを知るとすぐに涙を流した。君は人が苦しんでいるとすぐに救おうとした。 旅の途中で気づいたよ。君は人間という生き物が、大好きだったんだ。世界を救う英雄は時に冷徹だなんて言われるけれど、私は違うと思う。英雄は、人の苦楽にいつだって寄り添うことができる、君のような人間のことだ。 私は君からたくさんのことを学んだよ。冒険心を持つことの大切さも、その一つだ。君が私を冒険に誘ってくれた日のことを、私は今でも覚えているよ。こんなことになってしまったけれど、私は冒険に出たことを後悔していない。 アルテス。私に大切なことをたくさん教えてくれてありがとう。また君と、夜が明けるまで語り合える日を、心の底から楽しみにしているよ。
シリーズ:アルテス・デンドルライトへ
長閑な平野だからって、魔物も呑気な性格をしてるとは限らないんだね……。まさか町の近くにある、こんなに普通っぽい平野で全滅するなんて想像もしなかったよ。自警団の人たちが来てくれなかったら、本当に危ないところだった。 僕ってやっぱり、まだまだ未熟だったんだ。……強く、なりたいな。
シリーズ:新米冒険者の気づき
平野を抜けたいなら、必ず自警団についていくか、用心棒を雇うんだよ。ここらは、平穏な見た目に油断した商人たちが、たくさん魔物に喰われてるって有名なんだ。 商人は商売をするのが仕事だ。ちょっと旅をしたからって、絶対に過信するんじゃないよ。わかったね?
シリーズ:見習い交易商人のメモ
北にある町は「魔法都市」と呼ばれている。どうやらお偉いさんの魔導師やら将来を見据えて教育を受けさせられる子供たちやらがたくさんいるようだが、私たち遊牧民には縁のないことだ。 ……しかし最近、息子が木の棒を振りながら何かを大声で叫んでいるのを見かけてしまった。自然と共に生き、自然の中でひっそりと死んでいく人生を、息子はつまらないと思っているのだろうか。もし息子が魔導師になりたいと言ったら、私は何と答えるべきだろう。私は息子に、望む人生を与えてやることができているのだろうか?
シリーズ:遊牧民の日記
私はとんでもないものを見てしまったかもしれない……。大司教様が恐ろしい悪魔のような姿になる光景だ。あまりの恐怖に、私は無我夢中で走って逃げていたようなのだが、その道中のことはあまり覚えていない。しかし、悪魔に変わった大司教様の横で、司教様が確かに笑っている光景だけは、今でも思い出せる。あの時の悪辣な笑顔を思い出すだけで、背筋が凍りそうだ。 何が起こったのかはわからないが、きっと黙示録教団は終わりだ。もし終わりでなくても、私は今すぐに助祭を辞めることにする。もうこの町からも離れ、どこか遠い場所で別の職に就いて暮らそう。信仰を失うことに躊躇いがないかと言えば嘘になるが……そう、心に決めた。
――ウィトリ、ここに眠る。
あの日、俺は全てを失いました。愛していたあの人も、苦しみを分かち合えるたった一人の親友も、一度に失ってしまったんです。しかし、生きる意味だけは、あの人が最期に残してくれました。 ――あの子を守って。その一言だけが、俺がこの地獄で生き続ける唯一の意味になりました。
記憶を取り戻した俺がお嬢に会いに行くと、お嬢はいつも孤児院にいました。孤児院の人にお嬢を引き取りたいことを伝えると、その人は驚いて言うんです。「まさか、本当に来るとは思わなかった」と。 あの人は、聖血晶に願いを託したせいで、早くに亡くなる運命に変えられてしまった。しかし、どの世界でもあの人は、あの日の大洪水のことを覚えていて、自分が早くに死ぬこともわかっていたようだったんです。だから、自分が死んだらお嬢を預かってほしいことをあらかじめ孤児院に伝え、そのときに、半竜の男が引き取りに来たらお嬢を渡すようにも頼んでいたようなんです。 俺は、涙を流しました。たとえ会えなくても、あの人と繋がっていることがわかったから。そして、あの人が希望を失っていないことがわかったから。
エンリルはあの悲劇の後、まるで人が変わってしまいました。世界を救うことなど頭の隅にもおかず、あの人を蘇らせることだけをただひたすらに望むようになりました。俺とエンリルとの距離はどんどん広がっていき、いつの間にかもう見えないほどに離れてしまいました。 俺は、エンキという名前を捨てました。最初にこの世界に生を受けたときに与えられた名前を捨てて、この地獄でお嬢の側に寄り添う新しい人生を歩むのだと決意したんです。あるとき偶然にエンリルに出会ったとき、あいつは別人のように、もちろん外見は別人ですが、心の形すらもまったく別の物に変わってしまっていました。 あいつはトウホと名乗りました。あいつも名前を変えていたのです。
あいつはあの人を蘇らせる方法を見つけたかもしれない、と落ち窪んだ目をギラギラと輝かせて言いました。俺は、それはダメだとあいつに答えました。しかしあいつは聞く耳を持たずにこう言ったのです。「世界のルールを変えられる石が、古代人の胸から取れるらしいが、その詳細な方法がまだわからない」と。 俺は怒りました。「あの人の娘を利用するのか」と。するとあいつは「娘のことなどどうでもいい」と言ったんです。俺は……悲しかったです。この地獄の辛さを分かち合える唯一の親友と、対立するしかなかったからです。 それから俺たちは、互いに敵同士になってしまいました。目的を違えたまま永遠に戦い続ける、敵同士に。
物心ついたころには、あたしは孤児院にいた。あたしの記憶にあったのは、ママの温もりと、いくつかの思い出だけだった。どうしてあたしにはママもパパもいないの? そんなことを聞いてまわって、みんなを困らせたっけ……。 あたしは、どうしようもない孤独から逃げるために、本ばかり読んでた。本の中にはたくさんの「過去の出来事」が描かれてて、「今から続く未来」に眼を向けるのが怖いあたしにとって、本だけが心の拠り所だったの。
ある日、あたしを引き取りに来たっていう大きな男の人に会った。赤い角が生えたその人は、膝を曲げて窮屈そうに背を丸めると、目線の高さをあたしに合わせてくれて、こう言ったの。「お嬢、迎えに来ましたぜ」って。 もちろん、初めて会った人だった。でも、その優しい声はなんだか懐かしくて、あたしの心は温かくなった。だからあたしは、その人が差し伸べてくれた大きな掌を、両手で握り返したの。
それからあたしは、ドヴと一緒に暮らした。裕福ではなかったのに、ドヴはいろんな仕事を掛け持ちながら、あたしに美味しい料理をつくってくれて、好きな本を買ってきてくれた。 ママの友達だっていうだけで、どうしてあたしにこんなに優しくしてくれるんだろう? どうしてあたしを守ってくれるんだろう? 古代人の生き残りだから? そんな疑問を声には出せなかった。聞いてしまったら、この幸せが崩れてしまうような、そんな気がしたから。
私は、何のために永遠を生きているのだろう。私は、なぜ自らの過ちを正すことができないのだろう。私は、どこに向かっているのだろう。 この声がもしも届くなら……エンキ、私の弱さを許してくれ。そして、お願いだ。……私を止めてくれ。私はもう、私のことがわからない。茨の道を歩いてきた私は、自らの足でひきかえすことなど、もうできはしない。 エンキ、ありがとう。……お前に辛い思いばかりさせて、本当に――
魔法を理解するためにはまず、この世界をつくる元素を理解しなければならない。 私たちの身体も、この塔も、汚れた野良犬も、生い茂る草木も、散りゆく花びらも、肌を打つ雨嵐も、黄金色の小麦も、すべて小さな元素が集まってできている。元素とは、万物の源なのだ。たくさんの元素が入り混じり、固く繋がり、また離れ、漂いながら、世界の形が時々刻々と変わっていく。 その瞳に映るものだけが世界ではない。魔導師を目指す者たちよ、世界の根源を感じなさい。
元素の種類がいくつあるのかは私にもわからないが、主なものは五つだ。火、水、風、地、雷。 君たちが「魔力」と呼ぶものは、これら五つの元素の「流れ」に干渉する力のことだ。腕の力で石を持ち上げるように、魔力によって元素の流れを操ることができる。 君たちにはそれぞれ得意な魔法と、苦手な魔法があるだろう。火の元素に干渉しやすい者は、火属性の魔法が得意ということになる。元素の流れを意識することで、魔法の精度は格段に上がるのだ。
この塔には、私が作り出した精霊たちが住んでいる。それぞれの元素を司る精霊たちだ。ただ、私は雷の魔法が苦手でね。雷の精霊だけはどうしても作れなかった。私の精霊たちはもちろん君たちを恨んではいないし、食べようとも思っていない。しかし、君たちの力を試そうとするだろう。魔法の真髄を、精霊との戦いに学ぶのだ。 ……言い忘れていたが、この塔は単純な力では突破できないように、結界を張っている。属性を理解し、突破するのだ。最上階に登ることができた者には、アカデミーの早期卒業を認めよう。
一つだけ、君たちにどうしても伝えたいことがある。アカデミーを卒業するころ、君たちは立派な魔導師になっているだろう。しかし、過信してはいけない。……魔法は万能ではないのだ。魔法で人の心を意のままに操ることはできないし、魔法で自分の悲しみを癒すことはできない。 強い心を持ちなさい。そのために、たくさんの経験をするのだ。大切な仲間を見つけ、誰かを深く愛し、ときに、どうしようもない無力感に打ちひしがれる。そのすべてが――些細な出来事も含めて、本当にそのすべてが――君たちを強い魔導師にしてくれるはずだ。
この世界には、神が定めたルールがある。優秀な君たちの中には、将来、そのルールを破ろうという者が現れるかもしれない。君たちが正しいと信じるのであれば、私はその選択を止めはしない。 自分のあらゆる選択に、責任を持ちなさい。世界の当たり前を疑う、冒険心を持ちなさい。暗い部屋の隅で泣いている人のために、魔法を使いなさい。 君たちの未来が希望に溢れることを、私は願っている。……永遠の時をかけて、希望が君たちの未来を拓くと、私は信じているよ。
昔々、何もない暗闇の中に、男がいました。 男は暗闇の中で、考え続けていました。自分という存在について、考えていたのです。しかし、何もわかりませんでした。いくら考えても、自分が何なのかわかりません。だから、男は手を伸ばしました。暗闇の先に自分を知る手がかりがあるのではないかと、そう思ったのです。男が伸ばした手は、偶然何かを掴みました。それは、モゾモゾと動く小さな生き物でした。生き物は言いました。「お前が何者なのかを知りたいのなら、まずは、この暗闇を晴らすことだ。お前にはその力がある」と。男は願いました。この世界が明るくなりますように、と。すると、その生き物に火が灯りました。燃え盛るトカゲ、それは火の精霊でした。
男は火の精霊が照らす世界を眺めました。しかし、世界には何もありませんでした。光は遠くへと吸い込まれていきますが、何の影も作りません。 男は世界を見ることを諦め、今度は自分の身体を眺め始めます。長さの違う指、皺のある掌、盛り上がった腕、窪んだ臍の穴、薄く毛の生えた足……。しかし、どうしても見えない部分がありました。自分の顔が見えないのです。そのとき、どこからか声がしました。「あなたの顔が見たいなら、光を映すものを生み出すことね。あなたにはその力があるわ」と。 男は願いました。この世界の光が何かに映りますように、と。すると、目の前に美しい女性が現れました。女性は大瓶を抱えています。そして、その中に水が溜まっていたのです。美しい女性、それは水の精霊でした。
男は大瓶を覗き込みました。水に男の顔が映されています。目鼻立ちのはっきりとした、自分の顔。男は自分の顔を知りましたが、それでも自分が何者かはわかりませんでした。 男は困り果てます。手がかりがないのです。考えることを諦めそうになった男の耳に、今度は、呆れたような声が届きました。「手がかりが欲しいのなら、空を飛んで探してみたらどう? あんたにはその力があるから」と。 男は願いました。空を飛べますように、と。すると、羽の生えた小さな妖精がどこからか飛んで来て、男の肩に座りました。小さな妖精、それは風の精霊でした。
男は風を受けて、空を自由に飛びました。飛ぶのは気持ちが良いものでした。しかし、どれだけ飛んでも手がかりは得られません。世界には、火と水と風とそれらの精霊しかなかったのです。男は飛ぶのをやめ、再び自分という存在について考え始めました。 そして、ある仮説が思い浮かびました。もしかすると、自分はこの世界そのものなのではないか、という仮説です。自分と世界には明確な境界があると考えてしまったから、自分という存在が捉えられなくなってしまったのです。すべてが自分だとすれば、「自分は世界だった」という答えが得られます。納得しようとした男に、誰かが話しかけます。「世界に明確な他者がいれば、その仮説は成り立たないな。他者の存在を願ってみたらどうだ? お前にはその力がある」と。 男は願いました。世界に自分以外の誰かがいますように、と。すると、黒い髭の小人が現れました。髭の小人、それは地の精霊でした。
地の精霊が現れた直後、轟音が世界に響き渡りました。世界に地面ができたのです。 男は地に足をつけました。男が歩くと地面が揺れました。地面が揺れると、水の精霊の大瓶から水が溢れました。すると、地面に海ができました。海に魚が泳ぎ始めました。陸に植物が生えました。そして、いつしか陸にたくさんの動物たちが生まれました。男は呆気にとられて、その様子をただ眺めていました。 ついに、世界に人が生まれました。人は、男に聞きました。「あなたは誰ですか」と。男は答えました。「わからないけれど、僕はあなたたちとは違う存在だ。あなたたちが生まれるよりもずっと前、世界が生まれるよりもずっと前から、ここにいたんだ」と。すると、人は答えました。「ならば、あなたは神ですね」と。男ははっとしました。 「神」。その言葉は、確かに自分の存在を明瞭に表しているように思えたからです。
男は自分が神であることを自覚しました。それから男は天に住み、地上の営みを眺めることにしました。生き物たちは互いに殺し合いながらも、均衡を保っているように見えました。 しかし、人だけがどこか変でした。人だけが、次々と道具を生み出していたのです。世界はどんどん変わっていきます。人は、神に近づこうとしているのではないか。そう思った男の耳に、声が聞こえました。「ならば、天罰を与えればいいさ。君だけが、完璧な神なのだから。君にはその力があるじゃないか」と。 男は願いました。すべての人に罰を、と。すると、どこからか太鼓の音がして、黒雲が世界を覆いました。音の主、それは雷の精霊でした。
雷がそこかしこに落ち、世界はぼろぼろになってしまいました。男は雷の精霊に言いました。「僕は、世界を壊したかったわけじゃない」と。雷の精霊が答えます。「これは、君が望んだことだ。君が創った『人』という生き物に、君は嫉妬したんだ」と。 男は返します。「嫉妬? 僕は完璧だって、あなたが言ったんだ。完璧な僕が嫉妬することなんて……」と。雷の精霊は言います。「完璧だからこそ嫉妬したんだ。不完全だからこそ人が持っている、人の――」。精霊たちは口を揃えて続けます。「――冒険心に」と。 男は地上を見下ろします。地上では、かろうじて生き延びた人々が、荒れた大地を耕していました。その澄んだ瞳、血豆のできた掌、泥まみれの足を見て、男はふと思いました。「なんて、美しいんだ」と。
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